|
歌詞に隠された物語とロマン 「アルプス一万尺 こやりのうーえで アルペンおどりを さあおどりましょ」 この歌を、一度も耳にしたことがないという日本人は少ないのではないでしょうか。向かい合って座り、互いの手を打ち付けながら、だんだん速くなるメロディーに必死でついていった...。そんな懐かしい記憶がよみがえる人も多いでしょう。 しかし、このあまりにも有名な手遊び歌「アルプス一万尺」の歌詞について、私たちは一体どれくらい知っているでしょうか。 私には5歳の子どもがいますが、彼女が最近この唄にハマっていて、歌詞の意味が気になってきました。 「なんで小ヤギの上で踊ってるの?」「こやぎ?こやり?こやりってなに?」「一万尺ってどういうこと?」「そもそもアルペン踊りってどんな踊り?」 当たり前のように歌ってきた歌詞には、実は意外と知られていない多くの謎が隠されています。この記事では、これらの素朴な疑問から出発し、歌のルーツ、誕生の背景、そして文化としての広がりまで、その奥深い世界を一つひとつ丁寧に解き明かしていきます。 この記事を読み終える頃、あなたの知っている「アルプス一万尺」は、きっと新しい物語をまとって、より一層魅力的に響くことになるはずです。 歌詞の謎を解き明かすまずは、多くの人が「なんとなく」で歌っている歌詞の、本当の意味に迫っていきましょう。最初のフレーズに、謎を解く鍵が隠されていました。 「小山羊」ではなく「小槍(こやり)」- 歌の舞台の正体多くの人が「小山羊(こやぎ)の上で」と記憶しているかもしれませんが、実はこれは間違い。正しくは「小槍(こやり)の上で」です。では、「小槍」とは一体何なのでしょうか。 これは、長野県と岐阜県にまたがる北アルプス、その象徴ともいえる槍ヶ岳(やりがたけ、標高3,180m)の山頂付近に、突き出すようにそびえ立つ、実在の岩峰(がんぽう)の名前です。 天を突く槍の穂先のように鋭い槍ヶ岳本体は「大槍(おおやり)」とも呼ばれます。そして、そのすぐ隣に寄り添うように立つ、高さ約100mの小さな岩の峰が「小槍」なのです。 しかし、この「小槍」、名前に反して決して可愛らしい場所ではありません。山頂は畳2〜3畳ほどの広さしかなく、一般的な登山道も存在しません。その頂に立つには、専門的な装備と技術を要するロッククライミングが必須となる、非常に険しい場所なのです。 「一万尺」の本当の読み方と、その高さ次に、「一万尺」という言葉です。歌のリズムから「いちばんじゃく」と口ずさんでいた人もいるかもしれませんが、これも正しくは「いちまんじゃく」と読みます。 「尺」は、日本古来の長さの単位(尺貫法)です。現在のメートル法に換算すると、一尺 ≒ 30.3cm。つまり、一万尺は、30.3cm × 10,000 = 303,000cm = 3,030m となります。 そして、この約3,030mという高さこそが、先ほど登場した**「小槍」の標高**なのです。歌の歌詞は、北アルプスにそびえる現実の「小槍」を、その標高とともに正確に歌っていたのでした。 幻の「アルペン踊り」- その正体とは?さて、歌詞の謎、最後は「アルペン踊り」です。結論から言うと、「アルペン踊り」という名前の特定の踊りは、実は存在しません。 これは、歌詞が作られた当時に、登山者たちの間で生まれたイメージ上の、架空の踊りなのです。 前述の通り、「小槍」の頂上は非常に狭く、険しい岩の上です。そこで手を広げて踊ることなど、現実には到底不可能です。 ではなぜ、このような歌詞が生まれたのでしょうか。それは、厳しい登山を乗り越え、ついに目的地である頂に立った者だけが味わえる、最高潮の高揚感や達成感、解放感を表現した言葉だと考えられています。空に手が届きそうな山の頂で、思わず踊りだしたくなるような喜び。その気持ちを「アルペン踊り」という、陽気で楽しげな言葉に託したのです。 このあり得ない状況設定こそが、この歌にユーモアと、登山へのロマンを与えていると言えるでしょう。 「アルプス一万尺」は海を越えてやってきた?歌詞の謎を紐解いた先に待っていたのは、あの陽気なメロディーのルーツを探る旅。実はこの曲、遥か遠いアメリカで生まれ、歴史の荒波を乗り越えて日本にたどり着いたことをご存知でしたか? 原曲はアメリカの愛国歌?「ヤンキー・ドゥードゥル」の衝撃「アルプス一万尺」のメロディーの源流は、アメリカで最も有名な民謡の一つ、「ヤンキー・ドゥードゥル(Yankee Doodle)」に遡ります。 この曲は、アメリカ独立戦争(1775-1783年)と深く結びつき、アメリカ人にとっては国民的な愛国歌であり、子どもたちに親しまれる童謡でもあります。コネチカット州では州歌にも制定されているほど、アメリカ文化に深く根付いた一曲なのです。 しかし、驚くべきことに、この愛国歌のルーツは、敵国であったイギリス軍がアメリカ兵を嘲笑するために歌った「侮辱の歌」だったというのですから、驚きです。 「ヤンキー・ドゥードゥル」の意外な歌詞 一体、どのような歌詞でからかっていたのでしょうか?最も有名な一番の歌詞を見てみましょう。> Yankee Doodle went to town A-riding on a pony, (日本語訳) この歌詞を理解する鍵は、「ヤンキー」「ドゥードゥル」、そして「マカロニ」という3つの言葉に隠されています。 ヤンキー(Yankee): 当時、イギリス人が植民地であるアメリカの人々を指して使った蔑称。 ドゥードゥル(Doodle): 「まぬけ」「とんま」といった意味を持つ言葉。 マカロニ(Macaroni): これは食べ物のパスタのことではありません。18世紀半ばのイギリスで、最先端の奇抜なファッションに身を包んだ洒落男のことを指すスラングでした。 つまり、この歌詞は「アメリカの田舎者(ヤンキー)のまぬけ(ドゥードゥル)が、ポニーなんかに乗って町へやってきて、帽子に羽根を一本挿した程度のことで、自分をロンドン流行の洒落者(マカロニ)気取りでいるぜ!」という、痛烈な皮肉と嘲笑を込めた内容だったのです。 しかし、アメリカの兵士たちはこの侮辱に屈しませんでした。むしろ、このキャッチーなメロディーを気に入り、独立戦争の戦場では、自分たちの士気を高めるための「自分たちの歌」として、堂々と歌い返したのです。こうして「ヤンキー・ドゥードゥル」は、侮辱の歌から愛国歌へと、その意味を180度変えて歴史に名を刻むことになりました。逆転の発想、素晴らしいですね! 原曲とヨーロッパ・アルプス山脈に直接の関係はない?「マカロニ」が繋ぐ意外な接点「ヤンキー・ドゥードゥル」がアメリカの歌であることは分かりました。では、ヨーロッパのアルプス山脈とは何の関係もないのでしょうか? 直接の関係はありません。しかし、先ほどのキーワード「マカロニ」をさらに深掘りすると、意外なところで「アルプス」の影が浮かび上がってきます。 当時、イギリスの裕福な貴族の子弟たちは、見聞を広めるための研修旅行として、ヨーロッパ大陸を巡る「グランドツアー」に出かけるのが慣習でした。そして、そのハイライトの一つとされたのが、険しいアルプス山脈を越えて、先進的な文化を持つイタリアへ向かうルートだったのです。 このグランドツアーを経験し、イタリア仕込みの最新ファッションや芸術に影響を受けた若者たちこそが、本物の「マカロニ」と呼ばれました。彼らは、いわば国際的なエリートであり、ファッションリーダーだったのです。 この背景を知ると、歌詞の皮肉はさらに深みを増します。イギリス兵は、「お前たちアメリカの田舎者がやっていることは、我々が命がけでアルプスを越えて手に入れた本物の洗練(マカロニ)とは似ても似つかない、滑稽な猿真似だ」と、より強く揶揄していたわけです。 つまり、「アルプス一万尺」の原曲は、アルプスを直接歌った歌では全くありません。しかし、その歌詞の核心部分には、当時のヨーロッパにおける**「アルプス越え」という特別な文化的価値観**が、間接的に関わっていた可能性があるのです。 ただし、「アルプス一万尺」の歌詞を考えた人が原曲の背後にある「アルプス超え」まで意識していたのかはよくわかりません。単なる偶然なのかもしれませんね。それでも、遠い異国の地で生まれた歌が、巡り巡って日本のアルプスを歌う歌になったという事実は、なんだかロマンを感じます。 なぜ山の歌として生まれ変わったのか?アメリカ生まれの「ヤンキー・ドゥードゥル」が、遠い日本の地で、なぜ「山の歌」として生まれ変わったのでしょうか? その背景には、戦後日本の熱い時代と、山に情熱を燃やした「山男」たちの存在がありました。 3-1. いつ、誰が作ったのか? - 1950年代の登山ブームと「山男」たちの熱狂「アルプス一万尺」の日本語の歌詞には、特定の作詞者がいません。作詞者は「不詳」。この言葉こそが、この歌の成り立ちを最もよく表しています。 この歌が生まれたのは、第二次世界大戦からの復興が進んだ1950年代。当時の日本では、空前の登山ブームが巻き起こっていました。人々は自由と平和を謳歌するように、日本の美しい山々へと目を向け始めたのです。 そのブームの中心にいたのが、大学の山岳部に所属する学生をはじめとする、本格的な登山を愛好する若者たち、いわゆる「山男(やまおとこ)」でした。 彼らは厳しい登山を共にする中で、仲間との絆を深め、士気を高めるために様々な歌を歌いました。そんな彼らの間で、どこからか伝わってきた「ヤンキー・ドゥードゥル」の陽気なメロディーに、自分たちのフィールドである日本の山の情景や、登山家としての心情を乗せた替え歌が自然発生的に作られ、歌い継がれていきました。これが、日本の「アルプス一万尺」の直接の起源です。 一説には、ボーイスカウトの指導者・中野忠八氏が作った「むこうのお山」というキャンプソングが元になったとも言われていますが、いずれにせよ、様々な人の手によって歌詞が付け加えられ、磨かれて、現在の形になっていったと考えられています。まさに、みんなで作り上げた歌、という感じですね。 3-2. なぜ日本一の富士山ではなかったのか? - 槍ヶ岳が選ばれた、熱い理由ここで、一つの大きな疑問が浮かびます。日本の山の歌を作るのであれば、なぜ日本一の知名度と高さを誇る「富士山」ではなく、当時としては一部の登山家にしか知られていなかった「槍ヶ岳の小槍」という、少しマニアックな場所を舞台に選んだのでしょうか? その答えは、この歌を作ったのが、ほかならぬ「山男」たちだった、という点に隠されています。 彼らにとって、山は単なる観光地ではありません。自らの体力と技術、精神力の限りを尽くして挑むべき、厳しくも美しい挑戦の場でした。 国民的シンボル・富士山: 富士山は、もちろん日本を代表する名峰です。しかし、登山道がある程度整備され、多くの人が登る山であったため、当時の本格的な登山家たちにとっては、「挑戦」という側面では少し物足りなく感じられたのかもしれません。 登山家の憧れ・槍ヶ岳: 一方、槍ヶ岳は、天を突くその鋭い山容から「日本のマッターホルン」とも呼ばれ、クライマーたちの間では特別な憧れの的でした。その険しい頂に立つことは、登山家にとって最高の栄誉であり、一種のステータスだったのです。 つまり、「アルプス一万尺」は、万人に向けた歌というよりも、**登山家という仲間内でのみ、その真価がわかる「内輪の賛歌」**として生まれたのです。 だからこそ、彼らはあえて、自分たちのコミュニティにとって最も価値があり、特別な場所である「槍ヶ岳」、そしてその中でも特に登頂が困難な「小槍」を歌の舞台に選びました。そこには、厳しい自然に挑む者だけが共有できる、誇りとユーモア、そして山への深い愛情が込められていたのです。 「アルプス一万尺」は、単なる山の歌ではなく、山を愛する者たちの熱い想いが込められた、特別な歌だったんですね。 世代と国境を超える文化「山男」たちの内輪の歌として生まれた「アルプス一万尺」は、いかにして国民的な手遊び歌へと変貌を遂げたのでしょうか。そして、その文化は日本だけに見られる特別な現象だったのでしょうか。この章では、歌が世代と国境を越えて広がっていった軌跡をたどります。 手遊びは日本だけ? - 海外の「ヤンキー・ドゥードゥル」の遊び方「アルプス一万尺」の手遊びって、日本独自の文化なの? ふと、そんな疑問が湧いてきますよね。 実は、答えは「NO」。原曲である「ヤンキー・ドゥードゥル」が親しまれているアメリカなどの英語圏にも、「ハンド・クラッピング・ゲーム(Hand-clapping game)」という、よく似た手遊び文化があるんです。 二人組で向かい合って、歌に合わせて手拍子をしたり、相手の手と自分の手をリズミカルに打ち合わせたりする様子は、日本の「アルプス一万尺」とそっくり。振り付けの細部は地域やグループによって様々ですが、陽気なメロディーに合わせて自然と体が動き出し、誰かと一緒に楽しみたくなる気持ちは、きっと世界共通なんでしょうね。 なぜ学校で歌われた? - 戦後教育とレクリエーションの重要性登山家の間で歌われていた歌が、どうして日本全国の子どもたちに広まったんでしょう? その最大のきっかけは、1962年(昭和37年)に、NHKの長寿音楽番組「みんなのうた」で放送されたこと。テレビという新しいメディアを通じて、この歌はあっという間に家庭に、そして学校へと広がっていきました。 この普及の背景には、当時の戦後教育の考え方も深く関わっています。新しい民主主義社会を築くためには、子どもたちの自主性や、仲間と協力し合う協調性・社会性を育むことが大切だと考えられていたんです。 手遊び歌は、まさに理想的な教材でした。 コミュニケーション: 友達と顔を見合わせ、息を合わせることで、自然なコミュニケーションが生まれる。 協調性: スピードや動きを合わせる中で、一体感や協力する楽しさを学べる。 心身の発達: リズム感や運動能力、指先の器用さ、さらには歌詞を覚える記憶力や集中力も養われる。 手遊び歌は、単なる「遊び」ではなく、子どもたちの成長を促す優れた教育的レクリエーションとして価値が見出されました。文部省が特定の歌を指導したわけではなくても、その教育的効果の高さから、全国の幼稚園や小学校の先生たちに歓迎され、自然と教育現場へと広まっていったんですね。 いつから始まり、今も続くのか? - 世代を超える文化の継承この手遊び文化は、いつ頃から始まり、今も続いているんでしょうか? 1962年の「みんなのうた」での放送をきっかけに、1960年代から70年代にかけて全国の子どもたちへと普及しました。この記事を読んでいるあなたが小学生だった頃には、もうすでに誰もが知る定番の遊びとして、文化的に完全に定着していたはずです。 そして、その文化は今も色あせることなく生き続けています。 保育園や幼稚園では、新しい世代の子どもたちが「アルプス一万尺」で元気な声を響かせています。最近ではYouTubeなどの動画サイトに、様々な人が手遊びを紹介する動画を投稿していて、現代の子どもたちは新しいメディアを通じてこの遊びに触れているんです。 親から子へ、そして子どもたちの間で。時代に合わせて形を少しずつ変えながらも、「アルプス一万尺」は世代を超えて愛され、確かに受け継がれているんですね。 「アルプス一万尺」をめぐる豆知識今回の記事もいよいよ終盤です。最後に、「アルプス一万尺」にまつわる、さらに興味深い二つの豆知識をご紹介しましょう。 ミックス犬「ドゥードゥル」との関係は?最近、「ゴールデンドゥードル」や「ラブラドゥードル」といった、プードルとのミックス犬が人気ですよね。「ドゥードゥル(Doodle)」という愛称、どこかで聞いたことがあるような…? そう、「ヤンキー・ドゥードゥル」の「ドゥードゥル」です。 これらの犬の名前は、歌の「ヤンキー・ドゥードゥル」に由来するんでしょうか? 実は、これも直接の関係はないんです。犬の「ドゥードゥル」の語源は、**プードル(Poodle)**という犬種名にあります。 1980年代に、オーストラリアで盲導犬として「ラブラドール・レトリバー」と「プードル」を掛け合わせたのが、「ラブラドゥードル」の始まり。「Labradoodle」という名前は、「Labrador」と「Poodle」を組み合わせた造語なんです。 この成功をきっかけに、様々なプードルミックスが「〇〇ドゥードゥル」と呼ばれるようになり、そのキャッチーな響きから愛称として定着しました。 歌の「Doodle(まぬけ)」とは意味が異なりますが、言葉の持つ陽気で親しみやすい響きが、賢く愛らしいミックス犬たちのイメージと重なったのかもしれませんね。 名作映画『ラストエンペラー』に登場する「アルプス一万尺」最後に、ちょっと意外な場所で「アルプス一万尺」のメロディーが使われている例をご紹介します。それは、1987年に公開されたベルナルド・ベルトルッチ監督の歴史的名作、映画『ラストエンペラー』のワンシーンです。 物語の終盤、清朝最後の皇帝だった主人公・溥儀(ふぎ)は、激動の人生の果てに一市民として、かつて自分が暮らした北京の紫禁城(故宮博物院)を訪れます。 彼が玉座の間を去った直後、場面は現代(公開当時)の紫禁城へと切り替わります。そこには大勢の西洋人観光客の姿が。そして、彼らを案内する中国人ガイドが持つ拡声器から流れてくるのが、あの「ヤンキー・ドゥードゥル」のメロディーなんです。 この演出は、とても印象的です。ほんの数十年前まで、皇帝一人のために存在した荘厳で神聖な空間が、今やアメリカ文化を象徴する音楽が軽やかに流れる、ありふれた観光地へと変わってしまった。その時代の変化と、どこか物悲しい皮肉を、この一曲が見事に描き出しています。 坂本龍一氏が手掛けた荘厳なテーマ曲と共に、このラストシーンの「ヤンキー・ドゥードゥル」もまた、映画に忘れがたい余韻を与えているんです。 おわりに 「こやぎ」の謎から始まり、「ヤンキー・ドゥードゥル」のルーツ、そして登山家たちの情熱へ。「アルプス一万尺」をめぐる、私たちの短い旅は、ここで終わりを迎えます。 単なる懐かしい手遊び歌だと思っていた「アルプス一万尺」。その背景には、アメリカ独立戦争の歴史、戦後日本の高揚、そして教育に込められた願いなど、実に豊かで奥深い物語が詰まっていました。 この記事を通して解き明かしてきた数々の謎が、あなたの知的好奇心を少しでも満たすことができたなら、嬉しいです。 次にあなたが「アルプス一万尺」を口ずさむとき、あるいはどこかでそのメロディーを耳にしたとき。その向こうに広がる、槍ヶ岳の険しい岩肌や、ポニーに乗ったアメリカ兵の姿、そして山々で声を合わせた若者たちの笑顔が、今までとは少し違った風景として、あなたの心に浮かんでくることを願って。 (责任编辑:) |
