当たり前の話かもしれませんが、学校にはこれを教えなさいという社会的な要請があります。それは、「○○教育」のような言葉で教育カリキュラムに組み込まれていくのですが…それが実に多い!少し例を挙げてみましょう。 私が担当する社会科では…平和教育、主権者教育、金融教育、法教育、消費者教育、税教育、人権教育、郷土教育などなど。 学校全体としては…キャリア教育、国際理解教育、安全教育、防災教育、性教育、ICT教育、食育に関する教育、ボランティア教育、LGBT教育、インクルーシヴ教育、芸術教育などなど。そして震災以降は福島原子力発電所の事故を受け、放射能教育みたいな感じの内容も入ってきています。ここに挙げたものはほんの一例で、○○教育は100種類を超えるという大学の先生がいたり、おそらく現場でもいまいちわからない(私自身も知らない)○○教育もあるように思います。 私の経験からは、学校ではこうした○○教育を行うことが「イベント化」しているのが現状のように思えます。例えば、主権者教育を行うために、市や県の選挙管理委員会とタイアップして模擬選挙(県知事選挙や市長選挙を模した教材を使い、実際の投票箱を設置し投票まで行う取り組み)をしたり、性教育に関してNPO法人の方々から講話をいただいたり、交通安全教育に関して警察署の方々から管内の事故状況について講話をいただいたりという取り組みです。もちろん、私たち教員がこうした○○教育に対して、すべて対応することは難しいものがあります。だから、こうした専門の方々から話を聞く機会が悪いというわけではありません。 しかし、こうした取り組みを行う中で、あまりにも「イベント」が多くなってしまっているようにも思います。イベントが多くなり、授業が減る。そして、その分をカリキュラム改正や、課外や補習で増やす。学校は多くの人たちが集まるので「問題」は付きもの。壊れた車がそのまま走っているような状況ですが、さらに過積載に陥っているように思えます。 だから、私は、授業を「○○教育の視点から捉えなおして考える」という取り組みをしていくべきだと考えています。例えば、主権者教育。明治新政府が国民に選挙権を与えなかった、超然主義の立場をとったことから、選挙権を得ることの意味を考える。当たり前のように選挙権を与えられる今だからこそ、選挙権を得た人の責任として、どんな能力が必要かを考える、とか。キャリア教育に関しては、産業革命やラダイト運動から働く人々の資質や能力はどのように変化したか、そして、今の社会の変化と働く上での資質・能力の変化を比較してみる、とか。 矛盾するような話ですが、○○教育の1回のイベントをやったから、生徒の「○○力」みたいな力が身に付くかと言えばそうではない。(身に付くようには努力しますが)だから、そういう力をつけさせたかったら、同じ話を違った角度から問い続けていくことしかない。それができるのは日常的に行なっている授業しかないかと。 自分の授業を「○○教育的な視点」でとらえなおす。そんな取り組みをしていきたいと考えています。 (责任编辑:) |